子どもの才能は生まれつき?
いいえ、家庭の関わりが大きな作用を果たします。


2017.3.3 テストの効能について考える その2

 テストの話題を引き続きもう1回続けます。前回は、テストが学んだことの記憶を強化する役割を果たすということをお伝えしました。この話は、昨年12月ごろ新聞誌面に書かれていた内容をご紹介したものです。

 その記事は、東京大学薬学部教授の池谷裕二先生を取材して書かれたものでした。池谷先生によると、学校でよく行われる小テストなどは、記憶の確認だけでなく、記憶に刻みつけるためにも有効で、「一問一答式のチェックテストでは、とかくまだ覚えていないものを選んで取り組みがちだが、しっかりと記憶に残すには、すでに覚えているものももう一度取り組んだほうがよい」というようなことを述べておられました。

 この記事を読んでしばらく後、それと似たようなことが、別の大学の先生の書かれた書物にもあったことを思い出しました。アメリカの研究結果を紹介したもので、この本は私の手元にありますので、テストの役割に関わる部分をご紹介してみましょう。

 大学生にテキストを7分かけて読ませた。その後で大学生は2群に分けられ、一方の大学生は再び7分かけてテキストを読み直した。もう一方の大学生は、テキストの内容を思い出して書き出すというテストに7分間取り組んだ。その後で最終テストを実施したところ、7分間の復習をした群よりも内容を思い出して書き出すテストに取り組んだほうが、成績がよかったのである。復習やテストから最終テストまで2〜7日の日数が空いている場合に、この効果は特に顕著だった。すなわちテストにより学習内容の長期記憶化が促進されたのである。

 この研究結果を紹介した日本の大学の先生は、「前に一度読んだテキストをもう一度読むよりは、思い出そうとするほうが、多くの心的エネルギーを要する。これがテキストの学習を促進したと考えることができる。あるいは、人が長期記憶に覚えている内容は、常にスムーズに思い出せるわけではない。テストを経験することで、知識を思い出す練習になったと考えることができる」と述べておられます。

 小学校低学年のお子さんは、まだそれを自分の体験に照らして検証するのは無理だと思います。そこで、おとうさんやおかあさんに振り返ってみていただきたいですね。テストの最中に、問いの文を読みながら、「えーと、何のことだったかな?」と、一生懸命自分の記憶の引き出しから、必要な知識を引き出そうとしたのではありませんか?それが時間制限まで続くのがテストです。テストのときには、普段とは比較にならないほどのエネルギーを使っていたことでしょう。

 以前お伝えしたように、学習や体験によって得られた情報は、すべて側頭葉の奥深くにある海馬と呼ばれる脳部位に送られます。海馬は、インパルスの強い情報を重要と認識し、長期記憶として残します。ですから、テストを受けることで、既に入力していた情報を再び意識のテーブルに乗せると、改めて重要な情報であると海馬に認識させる効果が生じるのです。

 私の所属する学習塾では、2週間かけてひとまとまりの単元を学ぶシステムを採用しています。2週間、授業と家庭勉強(予習や復習)を交互に繰り返し、さらに2週目の後半は総まとめの復習内容を授業でも扱います。そして2週目の週末にテストを実施しています。このテストは、2週間の学習成果を確かめるとともに、全員で競い合う形式になっています。ですが、学んだ範囲から出題されるこのテストを通じて重要な事項を想起し、それによって長期記憶に留めていたのですね。テストがそういう役割を果たしていたことを、改めて知ることになりました。

 前出の研究結果を紹介されていた先生は、日本の児童・生徒がテストをどのようなものと認識しているかを、4つのカテゴリーで示しておられました。

1.改善的テスト観・・・テストは、自分の苦手なところを指摘してくれるものだ。
2.誘導的テスト観・・・テストは、学習計画を立てるのに役立つものだ。
3.強制的テスト観・・・テストは、勉強を強制してやらせるためのものだ。
4.比較的テスト観・・・テストは、勉強のできる人とそうでない人を分けるためのものだ。

 この4つのうち、子どもの学力形成に有効な作用を果たすのはどれでしょう。すぐにお気づきになったかたもおありかと思いますが、1と2が望ましいと言えます。1のように受け止めると、子どもは自分の足りない点について気づきを得、修正しようと努力をします。また、2のように受け止めた子どもは、テストの準備を計画的に行うことが予想されます。

 そのいっぽう、3のようなテスト観をもつ子どもは、勉強を後回しにしたり、やるべき勉強をしないままテストを受けたりするおそれがあります。また、4のようなテスト観に立つと、勉強に対する歪んだ価値観が染みつき、自ら努力をしようという姿勢を失ってしまう危険性を感じます。

 子どもたちには、この先おびただしいほどの数のテストが待ち構えています。私たち大人は、改善的テスト観や誘導的テスト観に立った学びをするよう子どもたちを導いてやりたいものです。それがうまくいけば、子どもはテストのもつネガティブな側面に振り回されることなく、有意義な学習のもとで学力を伸ばしていけることでしょう。

H,S

 

2017.3.10 小学校入学に向けた学習上の準備って?

 もうしばらくすると小学校の後期課程が終わります。昨年の4月、初々しさに満ちた新1年生だった子どもたちも、この4月から2年生になります。1年生から2年生への進級は、単なる進級ではありません。最下級生のステップを終了し、新たに1年生を迎え入れることで上級生になります。そのこともちょっぴり誇らしく、新学期がくるのを楽しみにしておられるかもしれませんね。

 新3年生の子どもたちはどうでしょう。すっかり小学校生活に慣れ、もはや中学年になろうとしています。体つきもいつの間にか一回り大きくなり、どことなく大人びた雰囲気を身につけつつあることでしょう。この時期の子どもたちにとっての1年間は、成人後のそれよりもはるかに成長の度合いの著しい1年間だと思わずにはいられません。

 さて今回は、小学校入学を控えたお子さんとそのご家庭にスポットを当てて書いてみようと思います。前述の新2、3年生と違い、新1年生の子どもたちはこれから小学校に入学し、全く新しい環境で生活することになります。なにしろ、これまで通っていた幼稚園と異なり、小学校は建物の規模が格段に大きく、校庭も比較にならないほど広いものです。入学式の日には、こうした環境の大きな変化とともに、たくさんの児童に圧倒されるような思いを体験することでしょう。

 こうしてみると、新1年生児童にとって小学校への入学は大いに楽しみなことですが、同時に経験のない世界に足を踏み入れることへの不安も少なくないことでしょう。

 また、親は親で期待と不安の交錯する思いを余儀なくされます。「わが子は、小学校にうまくなじめるだろうか」「勉強面で後れを取るようなことはないだろうか」「仲良しの友達に恵まれるだろうか」…、心配すればきりなくいろいろあることでしょう。特に、玉井式に子どもを通わせる保護者にとっては、勉強面での備えがどれぐらい必要なのかということに関心が高いかも知れません。そこで、小学校への入学にあたり、どれぐらいのことができるようになっていたらよいのかについて、少し調べたことをこれからご紹介してみようと思います。

 まずは、ひらがなやカタカナをどの程度マスターしておくべきなのかについて。小学校の教員経験の豊富なかたに尋ねてみたところ、「小学校では、一からひらがな・カタカナを教えるという建前がありますが、多くのお子さんはすでにひらがなの読み書きができるようになっています」と言っておられました。したがって、2学期まで丁寧に教える先生もいらっしゃるようですが、1学期までにひらがなの読み書きを終了する先生も少なくないようです。

 ただし、拗音・長音などの特殊音節やカタカナまで身につけている子どもはそんなに多くなく、またその必要もありません。漢字などは、1年生の2学期頃から学習が始まります。ですから、習っていないのが当たり前であり、特に先取りして学習しておく必要はないと思います。

 ひらがなに関しては、前述のように昔ほど丁寧にじっくり指導しなくなっており、ある程度身につけておいたほうが安心でしょう。ひらがなと一口に言っても、清音46字、濁音25字、拗音33字と、かなりの数になりますから、簡単にやっつけることは不可能です。不十分だったとしても焦らず、まずは清音46字をきっちりマスターしておきたいですね。

 玉井式の「国語的算数教室」では、1年生のカリキュラムの最初からひらがなの文章が登場します。ですから、少なくともひらがなを読めるようにはなっておきたいですね。なお、書くことに関しては先取りの必要はありませんが、できれば鉛筆の握りかたについては少しずつ練習しておくとよいかもしれません。

 算数ですが、基本は「20までの数が数えられるようになっておく」ことです(この点が重要です)。お子さんの状態を確かめてみてください。足し算や引き算を早めにマスターしておく必要はありません。まして繰り上がりや繰り下がりのある計算などに手をつけておく必要はありません。算数の関連することでは、時計の「ちょうど○時」が理解できていることが望ましいでしょう。これがわかっていれば、時計や時刻の学習で困ることはありません。

 もう一つ、大切な準備があります。それは、「元気のよい声で話せる」「人の話をしっかり聞ける」ようになっておくということです。これらは、集団学習の場である学校や学習塾で欠くことのできないコミュニケーション手段です。特に、聞く姿勢は小学校入学後の学習成果に決定的な影響を及ぼします。毎日、お子さんと会話の時間をもち、そのときにお子さんがおかあさんの話を最後まで聞き遂げるよう、しっかりと導いてあげてください。

 以上から、重要な点をかいつまんでまとめてみましょう。

1.ひらがなの清音46字が正確に読めるようになっておく。
2.20までの数が数えられるようになっておく。
3.時計の「ちょうど○時」が理解できるようになっておく。
4.人の話を傾聴する姿勢を身につけておく。
5.元気のよい大きな声で話せるようになっておく。

 このほか、決めた時間に寝たり起きたりできる、自分の身の回りのことは自分でできるなど、「生活習慣の自立」といった面への配慮も必要でしょう。お子さんが、新たに始まる小学校生活になじみ、望ましい成長を遂げるにあたっては、早めの英才教育よりも、生活や学習で求められる基本的なことがしっかりと身についているかどうかのほうが重要です。これらについて、点検と準備をしっかりとしてあげてください。

H,S

 

2017.3.17 子どもの“聞く力”を育てるコツって!?

 もうすぐ小学校では入学式が行われます。小学校に入学したお子さんに、まずもって求められるものは何でしょうか。それは、先生の言葉に耳を傾け、説明を理解するということです。

 そこで先週掲載したブログにも、入学前の準備の重要な事柄の一つとして「聞く姿勢」を採りあげたのを覚えておられるでしょうか。今回は、子どもの“聞く力”を育てることの大切さと、その方法について考えてみようと思います。

 長年小学校の教員を経験された先生によると、「小学校1年生なら、先生の話に10分ぐらいは集中して聞けることが必要だ」そうです。2、3年生ならもう少し長い時間、先生やほかの児童が話すのをしっかり聞いて理解する姿勢が求められるでしょう。おたくのお子さんは、おかあさんの話を最後まで聞き、ちゃんと理解しようとしておられるでしょうか。

 ところで、「聞く」は「聴く」とも書きます。「聴く」は、注意を傾倒させて聞く、一言も聞き漏らすまいと集中して耳を傾ける、といった意味合いのとき、この漢字をあてることが多いようです。先生の話を集中して聞くのですから、「聴く」と書いたほうが適切かもしれません。

 子どもが授業をちゃんと聞けない、聞こうとしない。近年、そのことが大きな問題としてとりあげられています。ただし、これは今に始まったことではありません。20年、いや30年以上前から散々話題にされ、問題にされていたことです。このことから想像がつきますが、一番の原因はテレビの存在であり、テレビによる影響ではないかと思われます。

 テレビという媒体は、子どもにすさまじい影響を及ぼします。テレビから流される音声は歯切れがよくてテンポがあり、退屈させません。それに、演出としてダイナミックで効果的な音楽がタイミングよく流されます。面白い仕掛けが満載されたバラエティ番組などを見慣れている子どもにとって、学校の先生の話はいささか単調で刺激がなく、退屈に感じてしまうのも当然かもしれません。さらには携帯ゲームの存在も子どもの聞く力の衰えに一役買っています。こちらもテレビに負けず劣らず刺激的であり、子どもたちから家族水入らずの会話の時間を奪っています。

 このように、テレビや携帯ゲームなどが子どもの生活にすっかり浸透し、子どもにとってこれらのない生活は考えられないほどになっています。無論、多くの親がこうした状況を成り行き任せに見過ごしているわけではありません。テレビやゲーム漬けの生活が子どもの読み書きなどのリテラシー能力の低下につながることを危惧し、幼児の頃から子どもに読み聞かせをしたり、絵本を読ませたりするなどの対策を講じておられる家庭が多数あります(ただし、全体としては相変わらず子どものリテラシー能力の低下傾向に歯止めがかかっていません)。

 それでも、読む力の向上については意識して対策を講じる家庭がかなりあるのに対して、意外と盲点になっているのが「人の話を注意深く聞く姿勢」「人の話を最後まで聞き届ける姿勢」ではないでしょうか。前述のように、先生の話をしっかりと聞けることが学力をつける場としての学校が機能するうえでの前提です。それができないお子さんは、何が大切な話なのかわからないし、説明内容も理解できないし、作業の段取りやとりかかりも遅くなりがちであり、学校での勉強で躓くケースが多いようです。

 ですから、学校の授業で成果をあげられる子どもにするには、小学校への入学前、および小学校低学年までに人の話を聞く姿勢や態度を身につけておく必要があるでしょう。そこで「対策として何が考えられるか」ということになります。前出の先生によると、「聞く力をつけるには、学校であれ、家庭であれ、必ず人の目を見つめさせることだ」と述べておられます。よそ見をせず、手悪さをせず、相手と真正面に向き合い、目で聞くということを徹底させるのだそうです。

 家庭での親子の会話では、当然親も子どもの目を見て話す必要があります。親が目で話すことにより、当然子どもも目で聞くようになるのです。このことは、以前お伝えしたミラーニューロンの働きを思い出させます。ミラーニューロンというのは、相手の表情やしぐさ、行為を見て、それをまるで鏡で映したかのように反応するニューロン群のことで、子どもはこのニューロン群の働きによって親の話しかたや行動様式を真似て自分のものにしていきます。親子での会話のときには、ぜひお子さんの目を見ながら話し、お子さん自身にも親の目を見ながら聞く態度を身につけさせたいものです。

 また、親が話を聞かせた後は、何らかの行動に移させることも重要だと言います。そこでの行動は、何を聞かせたかと対応関係にあるものです。たとえば文字を書く、漢字を書く練習をする、計算問題を解く、作文や日記を書く、などです。先ほどもお伝えしましたが、先生の話をちゃんと聞いていないと、次の段取りに移れません。塾でも、先生の説明をろくに聞かず、他の子がやっている様子を見て、まごつきながら見様見真似で作業を始めるお子さんがいます。このタイプのお子さんが勉強を得意になるのは、大変困難と言わざるを得ません。

 親が話を聞かせた後は、ちゃんと聞いていたかどうかを確認する意味で、聞いた内容を反芻させることも必要でしょう。ただし、叱ったり強く命令したりするのではなく、穏やかな雰囲気の中でそういった確認が行われるようにしたいですね。再び先ほどの先生の言葉を紹介しますが、「聞く力の伸びは、聞かせ切るという決意如何による」と述べておられます。親の愛情を注ぎながらも、いいかげんな態度は許さず、「誠実に人の話を聞く姿勢」を育むことが大切なのですね。

 もしも、「うちの子は、注意深く聞く姿勢を欠いている」と思われたなら、前述のような試みをぜひ実行に移していただきたいですね。今なら、お子さんはどのようにでも変わります。

H,S

 

2017.3.24 英語教育はどうあるべき? その1

 みなさんよくご存じのことですが、小学校への英語教育の導入が国をあげた政策として着々と進められています。これまで、小学5年生からの2年間で、総合的学習の一環として「英語に親しむ」といった趣旨の指導が行われてきました。しかしながら、2018年からはそうした内容を3年生と4年生に移し、5年生からは正式な教科として扱う方向で準備が進められていると言います。

 英語は世界共通語、公用語として認識されており、実際に英語ができないと仕事にならない状況で働いている人たちが世界には多数います。ですから、どのような国においても教育に組み入れざるを得ない状況になっています。おそらく、みなさんのお宅でもお子さんの英語習得には高い関心がおありでしょうし、すでに英会話教室に通わせたり、家庭で英語に親しめるソフトを購入されたりするなど、家庭単位においても対処されているケースも少なくないことでしょう。

 だいぶ前のことですが、かく言う私も息子が小学校低学年の頃には英語にふれさせる経験をさせてみようと、そういった趣旨の教室に通わせたことがあります。

 アメリカやイギリスなど、英語を公用語としている国以外の英語教育はどのようになっているのでしょうか。詳しくはないのですが、英語圏以外のヨーロッパ諸国、アジアなどのかなりの国(シンガポール、タイ、韓国、中国など)では、小学校1年生から英語が必修教科として扱われ、年間を通じて結構な時間を割いて指導が行われているようです。オランダや北欧諸国など、ゲルマン語系の国の人々は言語的に近いせいか、英語に慣れるのが早く、さほど苦労せずに上達できるようです。しかしながら、文字も文法も全く異なる言語を使用している日本人は、英語の習得を大変苦手としています。

 企業の活動が自国内で完結する時代はとうに終わり、「日本の、あの会社」と思われていた企業の多くが、今や多国籍企業化しています。製造業では、中小企業すらアジアの様々な国に工場を移転させ、国際化を進めています。そうしないと生き残れなくなっているのです。外国の企業との提携などは日常茶飯事。当然、交渉事や会議において英語は必要不可欠の共通語となっています。そんな時代ですから、もはや「英語は不要」などとは言えません。

 小学校における英語教育の導入は、このようなグローバリゼーションの進行と軌を一にしたものです。国際化の波にさらされた社会の要請を受け、国が主導して英語教育の強化を図っているのだと思います。ただし、私自身は小学校で英語教育に時間や手間をかけることに対して、素直に歓迎できない気持ちでいます。というのは、「英語教育に力を入れれば、英語に強い子が増える」という単純な図式で成果につながるのかという疑問があるからです。「英語に力を入れれば、その分失うものも出てくるのではないか」という懸念が拭い去れないのです。

 英語教育の正式導入にあたっては、5年生以上の学年では週3時間程度の授業が組まれると言われています。どの教科のどのような学習が英語にとって代わられるのでしょうか。西欧では、初等教育の内容の8割ぐらいは母国語教育に関わる内容になっていると聞いたことがあります。これは、ヨーロッパ大陸における長い戦争の歴史において、領土や母国語を失った苦い経験をもつ国が多数あるからだと思われます。理科や社会などの学習は、戦後アメリカの影響(プラグマティズム・実用主義)を受けて組み入れられたものだと聞いたことがあります。また、フランスなどにはない音楽の時間も日本にはあります。こうした現実の是非はともかく、「あれもこれも」と初等教育で詰め込まれるなかで、ほんとうに英語に堪能な子どもが育成できるのでしょうか。

 もう一つ心配な点があります。5、6年生にきちんとした英語指導をするにあたり、それを誰が担当するのでしょうか。おそらく、今まで通りの教員が大半を引き受けざるを得ません。「それで大丈夫なのか」「教員の負担はどうなのか」「ネイティブ・スピーカーの外国人教師が指導しないと、ネイティブに近い英語の発音は身につかないそうだが…」などと、下衆の勘繰りよろしく無用な心配をあれこれしてしまいます。

 英語教育に堪能なかたの書かれたものを拝読すると、小学生がまともな英語を習得するには、年間およそ2000時間程度は生の英語にふれる必要があるとか。「中途半端な英語教育を施されても、身につけたはずの英語のほとんどは消えてなくなる」、といったような専門家の記述を目にしたこともあります。

 しかしながら、それでも「英語を学ぶ経験は、できるだけ早くから子どもにさせたほうがよい」という考えも捨てきれません。また、英語教育は間違いなく必要だと思います。またまた私の息子の話で恐縮ですが、息子は私立の6か年一貫校に進学しました。勉強ぶりは今一つでしたが、6年間を通して成績がよかったのは英語でした。「数学が好きだ」と言いながら、得意なのは英語でした。その理由は、前述のように小学校低学年のときに英語に慣れさせていたことだろうと思います。また、英語を話す外国人と接した経験も無意味ではなかったようです。そのおかげで、英語に対する無用の身構えがなく、むしろ親近感をもって学ぶことができたのかもしれません。ですから、「忘れたのでは意味がない」と、一概に言い切れないようにも思います。

 ここまで書いて気づいたのですが、導入のつもりで書いた事柄だけで1回分の文字数を使ってしまいました。すみません。続きは次回書かせていただきます。

H,S

 

2017.3.31 英語教育はどうあるべき? その2

 今回も前回に引き続き、子どもの英語学習、英語教育について書いてみようと思います。どなたもご存知のように、小学校での英語教育の強化が進められ、もうすぐ5・6年生では必修教科となります。これに伴い、従来5・6年生で行われていた総合的学習の一環としての英語教育は3・4年生に移管されます。そのうち、1年生から英語教育が悉皆となる可能性もあるでしょう。

 私自身は英語が得意ではありません。たまに外国人と交流する機会があると、「あー、もっと英語が上手だったらな」とため息をつくものの、「今さら英語は無理」とあきらめてしまいます。おそらく、年配者には私と同じようなケースが大変多いことでしょう。このことからもわかるように、これまで「日本人はどうして英語が下手なのか」は、喧々諤々と言えるほど論議されてきました。たとえば、文法中心の指導が実践的な英語力を身につけるうえで妨げになっているとか、逆に、うわべの会話フレーズを細切れに覚えさせるだけだからダメなのだとか…。

 その理由はいまだに明確にされていません。そうした紆余曲折の結果、「頭の柔らかいうちに学ばせれば」という方向に向かったのかもしれません。また、グローバリゼーションの進展が否応なくそうした方向へ向かわせたのかもしれません。しかしながら、前回も書いたように、小学生と言えば母国語の習得において大変重要な時期にあたります。英語教育の成果と引き換えに失うものがあったとしたら、それも問題です。そこで、敢えて早期からの英語学習に慎重な立場をとるかたの考えをご紹介してみようと思います。

 ある英語の研究家が、英語が大好きで大学卒業後にアメリカへ留学し、今は日本で英語教師をしているかたの体験や考えかたを紹介しながら、日本人が英語を学ぶということについての見解を述べておられる文章が目に留まりました。以下は、その内容をかいつまんでまとめたものです。

 言うまでもなく、外国語は他国のものであり、一つひとつの言語は、その国の文化を背負っているものです。だから英語に限らず、他の国の言語を学ぶときには、その国の文化に触れさせてもらっているという謙虚な気持ちが学ぶ側に必要だと思います。
 ぺらぺらにしたいからといって、幼いころから発音を身につけさせて、『文化を大切に!』と言っても、子どもには何のことかさっぱり分からないでしょう。「第二言語の学習は、人格の成熟を待ってからでも遅くはありません。私自身はそれでよかったと思っています。それより、自分の国の文化を満足に知らないほうが、外国人と接したときに恥ずかしいと実感するんじゃないでしょうか。」と(上述の留学経験者は)語ってくれました。
 つまり、言語はコミュニケーションの手段であるだけでなく、その国の文化そのものでもあるのです。「母国語で自分の意志を伝えられないのに、様々な価値観をもつ世界の人たちと話をすることはできない」と、留学の経験を通じてそのかたは感じたのでしょう。
 また、「語学力=コミュニケーション力と思う人もいるかも知れませんが、必ずしもそうではありません。英語が身についたら、外国人と対等に話ができると思っている人が多いけど、言葉は話したいことがあるから、自然と口をついて出てくるものだと思いますよ」とも語っていました。
 下手な英語でも一生懸命話せば伝わるし、伝わらなくても、語学力をバカにされることはありません。ある外資系のビジネスマンは、中国人の同僚が、自分よりもはるかに拙い英語力ながら積極的にコミュニケーションをとって好成績をあげていることに衝撃を受けたと言います。
 日本で暮らす外国人の日本語を思い出してください。彼らの話す日本語を聞いて、私たちが彼らをバカにすることはありません。日本を知ろう、日本になじもうとする彼らの懸命さが伝わってくるからです。
 言語を獲得し始める時期の子どもたちは、自我の芽生えによる強い「衝動」や「感情」に伴って発話が見られる場合が多くあります。他人への欲求や拒否を、自分が知っている限りの言葉を使って周囲に伝えようとします。言語は、コミュニケーションのツールとしてだけでなく、「思考の基盤」でもありますから、自己の形成という意味においても、一方的に単語を教えられるだけでなく、子どもの自発的な発話を促すことがより重要ではないでしょうか。

 この研究者は、著名な脳科学者の「人の脳を司る中枢は、最初に習得する言語をもとに第二言語を学習していく仕組みとなっている。母国語すらおぼつかない段階で他の言語を同時並行して教えても脳を混乱させるだけ。どちらも中途半端になる」という見解を紹介したうえで、早期からの英語教育について次のような結論を導き出しておられます。

@ 早期教育については、低年齢時から始める必要はない。もし英語の習得のための教育を始めるとすれば、第一言語を取得した後。
A 教育には本人のやる気が大切であり、意欲のない状態で進めても難しい。
B 早期教育をするのであれば、親にも根気と覚悟が必要となる。
C 大切なのは「英語をしゃべる」ことではなく、「しゃべる内容」である。
D 早期教育の怖さは、「効果を求めること」にある。母国語は日本語、英語はあくまでも第二言語である。したがって、あまり効果を求めずに英語を通して親子の関係を深めることが大切ではないか。

 これを読んでどう思われたでしょうか。英語習得に熱心な方々にとっては不快な情報も含まれているかもしれません。しかしながら、よく読み返してみてください。英語教育が否定されているわけではありませんし、むしろ懸念される事柄が丁寧に検証されているので、そうした点について配慮すれば、お子さんが英語を学ばれるにあたって生じるリスクを回避できるのではないでしょうか。

 私自身、日本人がネイティブと同じ英語の発音ができるということには大した価値を感じません。重要なのは話の中身であり、相手の気持ちを斟酌する思いやりや想像力だと思います。そう言えば、玉井先生も、外国に行って商談をされるときなど、言葉で説明できないことでも情熱をもって伝えようとすれば、たいてい相手はわかってくれるといったようなことをおっしゃっていました。玉井先生は、どうしても相手に伝えたいものをもっておられる。だから、外国のかたに思いを伝えることができるのでしょう。

 まずは、人に伝えたいことを自己に携えた人間になるようお子さんを育てていただきたいですね。そのためにも、外国語以前に、母国語と母国の文化の確かな継承者になることが大切であろうと思います。そのうえで、得られた余分な時間に楽しく英語を学ぶ。成果を得ることに躍起になる必要はないのではないでしょうか。それなら、英語を学んだ経験がマイナスに作用することはありません。

H,S

 




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