“しつけ”の本質について考える

 子どもの性格や行動において、個性が明確に見て取れるようになるのはいつごろでしょうか。幼児期からその兆候は見られるものの、本人の自覚も含めてある程度誰の目にも感じ取れるようになるのは、児童期の後半頃であろうと思います。たとえば中学受験をめざして学ぶ子どもたちを見ていると、見通しを立てて学んでいるか、それとも行き当たりばったりの勉強で取り組みにムラがあるか、粘り強く考えられるか、それともすぐにあきらめてしまうかなど、個々ではっきりと違いが出てきます。

 それを踏まえるなら、小学校の低~中学年のころは、しつけの仕上げ期の段階にあたるのではないでしょうか。そこで今回は、本コラムをお読みくださっている保護者の方々にお伝えしたいことがあります。それはしつけの本質とは何かということです。

 実は、この話題は私が勤務していた中学受験の専門塾のブログで取り上げたことがあるのですが、あれから10年以上経つというのに、いまだに多くの方々に読まれていいます。それは私の持論を述べたものではなく、京都大学の発達心理学者であった岡本夏生氏(1925‐2009)の著書の一節をご紹介し、私の思いを簡単に書き添えたものでした。今なお読み続けられているのは、子育ての真っただ中にある保護者の心に響くものがあるからではないかと思います。岡本先生の著書(「子どもと教育 小学生になる前後」岩波書店1995)で、そのことに触れられている箇所をちょっとご紹介してみましょう。

「しつけ」ということばによく「躾」という日本製の漢字があてられることがあります。身のふるまいを美しいものにするという意味で、大変いい字だとほめたたえ、好んでこの字を用いる人も少なくありません。しかし、「しつけ」ということばは元来、着物を「仕付ける」ということと結びついて、私たちの中に根をおろしてきているのではないでしょうか。
 というのは、躾という字がもたらす意味よりも、この着物のしつけ・・・を背景にする意味の方が、子どもをしつける過程の本質を言いあらわしているように思われるからです。着物の形をあらかじめ整えるために、仮に縫いつけておくのがしつけですが、大切なのは、いよいよ着物が本格的に縫いあがると、しつけの糸ははずされて・・・・・ゆくということです。できあがった着物にしつけの糸は不要です。しつけの糸が残っているのはむしろおかしいのです。
 秋の夜、縫いあげた着物を、母が父に着せようと軽い音をたてながらしつけ糸をはずしていた光景を私は思い浮かべたりします。そして、しつけが、やがてそれははずされるということを前提として含んでいるところに、私は強い共感をおぼえるのです。事実、子どものしつけにとって、やがてそれがはずされていくということが実に大切なのです。特に、幼児期の終わりから、学童期の子どもの発達にとってこの過程が大きな意味をもってくることを、くり返し強調しておきたく思います。

 岡本氏は、しつけにあたる英語はどういうものかに興味をもち、知り合いの外国人に尋ねてみたそうです。すると、トレイニングtrainingとか、ディシプリンdisciplineなど、「訓練」や「教えこみ」を意味する言葉がもっとも対応するものでした。あるいはビヘイビア・セッティングbehavior settingなどと呼んだりすることもありました。

 ただし、これらの英語で表現された言葉は、糸を通すまでの意味合いには対応しているものの、糸をはずすという、日本のしつけの意味する重要なニュアンスが含まれていません。岡本氏は、「日本の家庭生活でおなじみであった着物を縫いあげていく過程をとらえた言葉が、子どもの教育の過程のなかの言葉としても取り入れられ、それがしつけの基本的な性格をたいへんみごとに言い当てているところに、私たちの祖先の深い知恵を思わずにはいられない」と述べておられます。みなさんはどう思われますか?

 ここまで、しつけの本質についてともに考えてみました。しつけは子どもの自律を促すためにあるものだということを確認しましたが、実際の子育て場面においては、わが子のふるまいに困惑されることもあるでしょう。そんなとき、みなさんはどう対応されていますか?児童期までの子どもには、まだきちんとした行動規範が形成されていません。したがって、子どものふるまいを正すのに苦労しておられるかたもおありでしょう。厳しく叱ると親も興奮してしまい、あとで憂鬱な気分に陥る人もいます。また、あまり叱ると子どもが萎縮型の人間に育つことを懸念し、危惧する人もいるでしょう。さらには、強い叱責は先ほどのしつけの原則と相反するように思う人もいるかもしれませんね。

 このことに関して、前出の岡本氏の著書で次のような話が紹介されていました。AとB、二人のおかあさんが同じように厳しくわが子をしつけているのに、Aのおかあさんの子はおずおずとした引っ込み思案なタイプに育ち、Bのおかあさんの子は伸び伸びとした明るいタイプに育ちました。どうしてこんな違いが生じたのでしょうか。岡本氏は次のような見解を示しておられます。

Aのお母さんの場合、子どもはしかられる時、いつも「お前は悪い子だ」ときめつけられたと受けとっているのではないでしょうか。自分の好きなお母さんから、お前は悪い子だ、だめな人間だと決めつけられるほど、子どもを不安にかりたてることはないのです。おそらく自分の存在を最も深い所でおびやかされることになるのでしょう。時にはそれがお母さんの愛情をうたがうことにもなりかねません。お母さんの方は一所けんめい子どものことを考えていることに変わりないとしても。
 それにくらべて、Bの方の子どもは、お母さんの愛情をいつも信じていて、お母さんは自分をいつでも愛してくれている、そして、自分の行動がまちがっている時は、すぐに教えてくれるのだ、という信頼感があり、それが子どもをのびのびと思い切って行動できるようにしているのではないでしょうか。

 上記の例に関して、岡本氏は「しつけはあくまで行為の善悪を教えるのが中心であって、人の善悪を教えることではないことを強調しておきたい」と述べておられます。このことから学べるのは、いけないのは子どもではなく、子どもがした行為なのだということでしょう。そうすれば、子どもは叱られることによって自分を「ダメな子だ」と否定したり、親への不信感を抱いたりすることはありません。冷静に自分のふるまいを顧みて、「自分のしたことはよいことか、悪いことか」を考えるようになるでしょう。

 しつけとは難しいものです。しかし、しつけは子どもが自分を律する人間に育つためにあるのだという前提に立てば、自ずと親のなすべきことは見えてきます。また、子どもの逸脱行動に際して、子ども自身を否定するのではなく、子どもの行為に対して厳しい姿勢で臨むのは必要なことです。それはしつけの原則と決して矛盾するものではないということも、おわかりいただけたのではないかと思います。

 
<押さえておきたい!> しつけの仕上げ期で留意したいこと

1.しつけとは、子どもの自律を願ってするものです
 何につけても未熟な段階の子どもには、いろいろと手を差し伸べるケースが多いものです。ですが、それはやがて訪れる独り立ちの時期を見据えたものであるべきでしょう。そこで、「これは、そろそろ一人でもできるのではないか」と思ったときは、親が指示したり助けたりするのをやめ、子ども自身にさせてみることも必要でしょう。そして、ちゃんとやったときは、大いに喜びほめてやりましょう。子どもは、一人でやれることを誇りに感じ、何事も親に頼らずにやろうとするようになるでしょう。

2.しつけの一環として叱ることは必要。ただし、重要な原則があります
 子どもが親の言うことを聞かなかったり、勝手なふるまいに及んだりしたときには、きっぱりと叱ることも必要です。しかしながら、そのときに留意すべきは、「いけないのは子どもの行為であって、子ども自身ではない」という意識をもつことです。そこを押さえていれば、子どもは傷つくことはありませんし、落ち着いて自分の行為を振り返ることができます。また、親も興奮して子どもに手を出したり、ひどい言葉を浴びせたりするリスクを回避できるでしょう。経験がおありかもしれませんが、感情的に叱ってしまい、あとで落ち込むのは親として辛いものです。