子どもの才能は生まれつき?
いいえ、家庭の関わりが大きな作用を果たします。


2016.9.2 “知りたい!”から“なりたい!”へ

 学習塾に30年余り在籍する私にとって、保護者からの相談で最も多かったのが「学習意欲」に関するものです。わが子への「もっとやる気を出してほしい」という願いは、おそらく親ならだれもが抱く切なる願いであろうと思います。

 子どもは、いったい何を糧にして学習意欲を高めるのでしょうか。もしもそれが明確になれば、もっと子どもの勉強は活性化できることでしょう。ある年、このことについて有益なヒントになる大学の先生の研究資料が目に留まりました。「子どもの学習意欲を支える要素は4つある」こと、そして「それらの強さが年齢に応じて変化していく」ことが示されていたのです。これによって、小学生の子どもの学習意欲は、親の関わりかた次第で随分変わることもわかりました。それ以来、私は機会があるごとにこの資料を保護者にご紹介し、家庭教育の参考にしていただいています。

 このブログにおいても、3回ほど前からこの資料をもとに子どもの学習意欲に関する情報をお届けしています。前々回からお伝えしたことの内容を少し振り返ってみましょう。小学校の1〜2年生頃までの子どもの学習意欲を支える主要な要素は「賞罰」(ほめる、叱るなど)でした。その効果が薄れ始める3年生ごろ、急速に影響力をもち始めるのが、「親の期待に支えられた学習意欲」(規範意識に基づく学習意欲)でした。「親の望むような人間でありたい」「親の期待に応えたい」という思いが、学習活動に向かう意欲を支えます。この意欲の要素は、子どもが精神的に親から自立していく思春期頃まで最も高い効力を発揮します。

 ここで、もう一度「学習意欲の強さの相対的変化」を示すグラフを見てください。



 今回は、学習意欲を支える残りの2つの要素について検証してみようと思います。C の「内発的学習意欲」の推移を見てください。小学校の6年間について見ると、AやBの要素が大幅に上がり下がりしているのに対し、学年を問わず重要な働きをしています。すでにご説明したように、内発的学習意欲は子どもの向上心や知的探求心を背景とするため、学習という行為に対する最も直接的な動機と言えます。したがって、昔から教育界において望ましいものとみなされ、奨励されてきました。

 知りたいから、疑問を解決したいから学ぶ。そして、わかったときの何とも言えない達成感があるから学ぶ。それは純粋な願望であり、こうした動機に基づく学習意欲が好ましいということについてはどなたも異論がないことでしょう。何歳になろうと失いたくない学習の動機ですね。ところが、この内発的学習意欲は年齢が上がるとともにその強さが徐々に下がっているのが気になります。なぜでしょうか。これは、決して知りたいという欲求が年齢とともに減退するからではありません。これについては、大学の研究者が理由を述べておられます。詳細は後でご説明します。

 さて、いよいよ4つ目になりますが、Dの「自己目標実現のための学習意欲」の推移をグラフでご確認ください。この意欲の要素は、低〜中学年までほとんど効力を発揮しません。これはどういうことでしょうか。この年齢までの子どもは、目標を達成しようという気持ちが学習意欲につながらないのです。と言うよりも、「目標をもつこと自体がまだ難しい年齢なのだ」と言ったほうがよいかもしれません。

 その理由は明白です。大人と比べて人生経験が浅く、世の中についてもろくに知らないのですから、目標を設定しようにも知識がありません。そこが高校・大学受験生と大きく異なる点です。受験が必ずしも子どもの意志とは限らず、たとえ本人の希望であったとしても、「お兄ちゃんが通っているから」「おかあさんの母校だから」「サッカーのクラブが強いから」「家に近いから」といった身近な動機であることが多く、将来を見通して目標を定めたわけではありません。「受験するというのに、なかなか本気になってくれない」と嘆く保護者が多数おられるのは、そうした事情がかなり影響してのことだと思います。

 しかしながら、先ほどのグラフをよく見ると、この意欲の要素は6年生頃から徐々に上向き加減になっています(意欲の要素として3番目に浮上)。このタイミングをうまく 活かすべきでしょう。受験生としての自覚が思うに任せなくても、親は焦って子どもに辛く当たったところで意味がありません。それよりも、受験が目標になっていくよう、上手に子どもの意識を向けさせるべきでしょう。

 たとえば、受験生活の開始に向けて、まずは身近な事例に目を向けさせて「あの学校へ行きたい」という気持ちを刺激し、受験生活の途中では学校に関する様々な情報を子どもに与え、さらに学校を見学しに行き、といったように受験までの時間的距離が短くなるにつれて情報をレベルアップさせるがよいのではないかと思います。受験を視野に入れておられるご家庭は、お子さんのタイプや様子を見ながら、いろいろと試みてみてはいかがでしょうか。受験は、最終的には子ども自身の目標となるべきものですが、中学受験に限っては親がレールを敷くという側面も必要なことだと思います。

 目標達成に向けた意欲は、思春期の到来とともに学習意欲を支えるいちばんの要素になります。親から精神的に独立した子どもは、自ら定めた目標の実現に向けて、自分自身のためにがんばり始めるのです。この段階へ至ることで、親の子育ては一応の終了と言ってよいのではないでしょうか。

 ところで、前述のように「内発的学習意欲」は子どもの年齢ともに少しずつ影響力を失っているように見えます。大学の研究者(資料を著書に掲載した先生)によると、内発的動機が子どもの成長につれて社会化し、「目標意識に支えられた学習意欲」へと転化していくのだ」というようなことを述べておられました。「知りたい」「解き明かしたい」という願望から、しだいに「その方面のスペシャリストになりたい」という願望に変わるということなのでしょう。つまり、学ぶこと自体が目標である状態が、社会的な知識が増していくにつれ、その学びを専門とする職業に就くことが目標になっていくのです。「知りたい」が「なりたい」に変質していくということなのですね。

 このことに鑑みると、小学生時代の知的好奇心に支えられた学び(内発的動機に基づいた学習)は、もっともっと大切にされるべきだと思わずにはいられません。このような学びをたっぷりと経験している子どもは、そこから好きな学問分野が生まれてきます。それに打ち込んでいるうちに、必ずやその学問から開けてくる世界が具体的に見通せるようになるでしょう。

 大学へ行ったけど、何のために学んでいるのかわからない。この学問が自分に向いているのかどうかピンとこない。どんな職業に就いたらよいのかわからない。そんな大学生が増えていると聞いていますが、内達的学習意欲に支えられた勉強に没頭した経験をもつ子どもは、少なくともそういった大学生にはならないのではないでしょうか。

 随分長くなってしまいました。何回も続けた学習意欲に関する記事ですが、参考になる点があったなら幸いです。

H,S

 

2016.9.9 習熟のための学習をどうとらえるか

 みなさんは、「習うより慣れろ」という諺をご存知だと思います。これは、もともと職人の世界で使われた言葉のようですが、「理屈を理解しようとするよりも、まずはやってみることだ。やっているうちに習熟が進み、必要な技能が身についてくる」といったような意味あいでしょうか。

 小学生の学習においても、これに似た考えかたが流布しており、計算を毎日100問やるとか、10個の漢字を1字につき20回ずつ書いて覚える、などといった課題がしばしば学校で出されています。こういうやりかたの効果について、みなさんはどう判断されるでしょうか。代表的なものとして次のようなことが考えられるでしょう。

・「同じことをひたすら繰り返すことで、計算の要領を身につけたり、漢字の字形を頭に浸透させたりできるのだから、この方法には十分に意味がある」
・「同じことを繰り返すと惰性に陥ってしまい、子どもは機械的に鉛筆を走らせるだけで頭を使わなくなる。だから、大人が期待するほどの効果はない」

 みなさんはどちらの考えかたに近いでしょうか。私はどちらにも相応の妥当性を感じてしまいます。というのは、数の取り扱いや処理を繰り返し練習することで、脳はその作業に適応していきます。また、漢字を書くことも、繰り返せば手が覚えるがごとくその字形が脳に刻みつけられます。その一方で、繰り返し取り組んでいる割に漢字が正確に覚えられない子ども、計算操作のスピードや正確性に進展が見られない子どもも少なくありません。何がこのような違いを生み出すのでしょうか。

 ともあれ、低学年児童の学習では、計算や漢字などに代表されるような基礎・基本の習得がかなりの割合を占めています。その学習を意味あるものにするにはどうしたらよいのでしょう。これについて、ある教育学者は「“わかる”ことと“できる”ことが互いに結びつくことが、より合理的である」と述べておられます。操作だけできても、その意味を子ども自身が理解していなければ、真の学力の形成にはつながらないからでしょう。また、この教育学者は著書に次のようなことを書いておられます。

 習熟は、それを繰り返すことによって、操作が困難なく自動的にできるようになることです。そして、その操作の微妙な関係をわがものにすることです。それは何よりも高い知識や技能を獲得するためにも必要です。このことを忘れて、習熟そのものを機械的にとらえると、さまざまな問題がおこってきます。

 このことの危険性を物語る例として、ある教師が4年生児童に、割り算を一定のスピードで一万回やらせる練習を試みたが、成果が得られなかったことを紹介しておられました。なぜうまくいかなかったのでしょうか。その理由として、「この時期の子どもは、現実のなかで計算を応用することにもっと興味をもっているし、そうした問題解決の世界で、習熟をつける工夫がさらになされるべきだった」というようなことを書いておられました。つまり、習熟が機械的操作に終始すると意味をなさなくなります。習熟のための操作を、いかにして現実の世界に結びつけていくかが重要なのですね。

 また前述の教育学者は、習熟のための作業を形式的で機械的なものに陥らせるのではなく、子どもなりの気づきを得る場にすることの重要性にも触れておられました。子どもは、お定まりの作業を延々と同じように繰り返しているわけではなく、一人ひとりが作業の習熟のプロセスにおいて創造的な発見をしているのです。この学者は、そのことを実際の例をあげて紹介しておられました。

 小学2年生の男の子がいました。算数が苦手で、計算問題がテストに出ると 答えを導き出すまでに時間がかり、最後までできなかったり、不注意でミスを してしまったり。そこで担任の先生に、1週間に何度か計算問題を百題できる だけ短時間で解く競争を子ども同士でさせられたのですが、他の子どもが全部 解けたときにまだ2、30問しか解けませんでした。

 この男の子は、二桁の引き算の筆算でも躓きました。たとえば、83−27の筆算をするとき、3から7は引けません。そこで、80から10を借りてくるのはおなじみの方法ですが、そのとき、3に10を足して13であるということと、80が70になったことを頭に置き、そのうえで13から7を引く作業に移りました。まず13から3をとって10にします。次に10から残る4を引いて6を出すといったように、恐ろしくまどろっこしい作業手順で解こうとしていたのです。こんな具合ですから、いつの間にか80が70になっていることを忘れてしまう、といった塩梅でした。

 やがて、ふとしたことから80から借りてきた10から7を引き、それに3を足すとたちまち1の位の答えが導き出せることに気づきました。また、10の位の数は、1少ない数から引けばよいことにも気づきました。これによって、計算のスピードと正確性は一気に増していきました。80から10を借りるときに、8の数字のすぐ上に7と記しておくと、すぐさま10の位の計算も終わることにも気づきました。こうして、長い間苦しんでいたのが嘘のように計算の力は熟達していきました。

 ちなみに、この実例は前述の教育学者自身の子ども時代のものでした。この学者は多数の著書を残しておられる有名な人物です。そのような人物でも、子どもの頃にはちょっとしたことが原因で単純な操作の習熟で壁に突き当たることがあるのですね。また、その壁を乗り越えることができたのは、子どもなりの気づきや工夫があったからです。このような気づきは、人生の歩みを決めるほどの発見と言ってもよいでしょう。

 これは指導する側の反省も引き出してくれる話だと思います。計算操作の習熟において、子どもが間違え易い点は何かをしっかりと押さえ、効率的にスキルアップしていけるよう指導する必要があります。子ども一人ひとりをしっかりと見て、躓いている点はないかをきちんと見守る必要があります。早く気づけば、それだけ子どもが苦しむ時間も少なくて済むのですから。

 最後に。小学2〜3年生までの子どもは単純なことの繰り返しを比較的嫌がりません。計算操作のスキルアップなどは、このような時期にこそ必要な学習と言えるでしょう。ただ漫然と繰り返すのでなく、少しでも速く快適にやりこなせるようがんばっていくプロセスを通して、より高度な学習に対応していくための土台が築かれます。今の学習の状態を振り返ってみてください。

H,S

 

2016.9.16 子どもを親の望む人間に育てるには?

 いきなりで恐縮ですが、今回の記事をお読みいただくにあたり、まずはみなさんのお子さんの長所と短所をそれぞれいくつかリストアップしてみてください。性格面や行動面に関して、わが子の美点だと思うところ、欠点として気になるところがおありだと思います。

 さて、わが子の特徴を改めて思いめぐらすことで、何かお気づきになりませんでしたか? 毎日、お子さんと生活を共にしている人物と共通点がたくさんあったことでしょう。 そう、子どもの性格や特徴はかなりの割合であなた自身、つまり親から受け継いでいるものなんですね。

 これはあくまで私見ですが、子どもは親の美点を受け継ぐよりも、むしろ欠点のほうをより多く受け継いでいるように思われてなりません。「なんでこんなに根気が続かないのだろう」「どうして我慢できないのだろう」「すぐ注意散漫になってしまう。もっと集中できないものか…」――そんな欠点が、実は自分にもあることに気づき、苦笑されたかたはありませんか?

 以前、ミラーニューロンについて書いたことがありますが、ご記憶でしょうか(2015年11月20日掲載)。ミラーニューロンというのは、目の前にいる他者の行為を鏡のように脳内に映し出し、自分も同じことをしているかのように反応するニューロン群のことです。このニューロン群の働きで子どもは目の前にいる人から様々なことを学び、自己にとり入れているんですね。

 このように、子どもは他者のやることを見て物事を学んでいきます。また、子どもがすばらしい勢いで新規のことがらを学び取るのは、ただ見るだけでなく模倣するからだと言われています。これを心理学では“モデリング”と呼んでいます。子どもは、毎日親のすることを見てはまねをし、それによって話しかたや聞きかたを学び、さらには親の考えかたや価値観、行動様式などを身につけていくわけです。

 親はわが子に対して様々な期待をもち、「こうあってほしい」「このような人間になったほしい」と強く願います。もしもその願いを実現したいと思うなら、子どもに「こうしなさい」「こんなことをしてはいけません」などと命令や禁止の言葉を伝えるよりも、自分の行動で示すほうがはるかに効果的だということがわかりますね。

 アメリカの教育関係者の著書に、次のようなことが書かれていました。

 怒るかわりに冷静な声で話してやれば、腹が立ったときにも冷静なままでいることを子どもに教えることになる。あなたが、悪い言葉を使ったことを謝れば、過ちをおかしたときに責任をとることを子どもは学習する。丁寧な言葉を使うときは、丁寧な言葉を子どもは学習する。世の中のために貢献するとき、子どもは貢献するということを学ぶ。親が他人に親切にするとき、子どもは親切にすることを学ぶ。ベストをつくす親からは、ベストをつくすことを子どもが学習する。本を読めば、読書についての適切な態度を子どもは学ぶことになる。親が健康によい食べ物を食べ、運動をするときには、健康によい食べ物を食べ、運動をする大切さを子どもは知る。まともな態度でふるまえば、まとものふるまい方を子どもは学ぶ。

 子どもは親を見て学んでいます。だからこそ、親は手本を見せる必要があるのですね。それは親として辛いことですが、自分ができないことを子どもに要求する方法は楽であるかわりに、ほとんど効果がありません。親にとって辛い方法だからこそ、その方法に意味があり効果をもつのだろうと思います。

 先ほど、「子どもは親のネガティブな側面のほうをより多く受け継いでいるのではないか」という私の見解を書きましたが、前出のアメリカの教育関係者は、「親が思わず口にした汚い言葉に対して、子どもはより強く反応し、興味をもつ」というようなことを書いておられました。そんな言葉を子どもの前でうっかり使ってしまったなら、「『さっき、おとうさんはいけない言葉を使ったけど、とても反省している』と、親の過ちを素直に認め、訂正したほうがよい」とも述べておられました。そうしないと、子どもは学校の友だちや先生の前でその言葉を面白おかしく使ってしまう懸念があるからだそうです。

 最後に、みなさんにぜひお伝えしたいことがあります。長年学習塾で仕事をしてきた私ですが、子どもに知的で有意義な人生を送ってほしいなら、「聞く耳をもった子どもにする」ということがいちばんの方法だと確信しています。なぜなら、授業で先生の話に耳を傾ける姿勢が学力を伸ばし、社会に出てからは、人の意見に耳を貸す姿勢が良好なコミュニケーションの実現にとって不可欠だからです。「えっ、そのことと今回の記事とどういう関係があるの?」と思われたでしょうか。

 学習塾に通っているのに成績が伸びない。その理由と大いに関係があるのは、「授業をしっかりと聞けない子どもが多い」ということです。そういう子どもはもとから注意散漫なのでしょうか。いいえ、そうではありません。実は、親から「人の話は聞くものだ」ということを教えられていないからではないか、と私は思っています。

 小学生までの子どもは、自分の思いを順序立てて理路整然と話すことができません。そんな子どもが話す技術を身につけるには、親が子どものまどろっこしい話しぶりにつきあい、最後まで聞いてやることが必要です。しかしながら、大人は毎日忙しく働いています。おかあさんは、家にいるときだって家事があり、わが子とゆっくり話す時間がありません。そこで、話しかけてくる子どもに「後でね」といったきり忘れたり、要領を得ない子どもの話しぶりに苛立ち、途中で遮ってしまったりすることになりがちです。

 しかしながら、そういうことが繰り返されると、子どもの話す技術がなかなか進歩しないだけでなく、「聞く耳を待たない子ども」になるという生憎な結果をもたらすことになります。親が子どもの話を最後まで聞かないということは、とりもなおさず「人の話は最後まで聞かなくてよい」ということを、身をもって教えることに他なりません。

 お子さんが小学生なら、決して遅くありません。1日10分、15分でも結構ですから、子どもの話をじっくり聞いてあげてください。それが、子どもの話す力を伸ばすのみならず、子どもの聞く耳を育てることになるのですから。

H,S

 

2016.9.23 早咲き、遅咲き、子どもの成長はみな違う

 一般に、親はわが子に早咲きを求める傾向が強いようです。そのほうが、同じ年齢の子ども同士の競争においても断然有利であり、親も心理的にゆとりをもって子どもの成長を見守ることができるからでしょう。

 これからお伝えすることは、そのことを問題視して書こうと思ったわけではありません。バイオリンで世界的な奏者になられたかたなどは、3歳頃から親がその世界に導き、専門の教室で猛烈な訓練を施され、そして自らも厳しい練習を自分に課すことで才能を芽吹かせておられます。ですから、早くから子どもの才能を見抜き、その才能が花咲くような環境を用意するのも親の務めだと言えるでしょう。

 ただし、子どもが生まれながらに授かった才能はそれぞれ違います。また、成長曲線はそれこそ千差万別であり、子育てや教育の及ばない面も多々あります。ですから、早咲きを願って子どもにあてがったものが、必ずしも功を奏するとは限りません。いつまで経っても子どもに進境が見られず、イライラすることだってあるものです。

 このブログをお読みになってくださっている保護者のみなさんへ。今、お子さんの成長ぶりに満足しておられますか? なかには、お子さんにいろいろな習い事をさせておられるかたもおありでしょう。それらで才能の芽吹きが感じられず、少し焦っておられるかたはありませんか? 今回は、そんなかたがおられたらぜひ読んでいただきたい文章をご紹介してみようと思います。

 以下の文章は、某国立大学の名誉教授で、その大学の附属幼稚園で園長を務めたご経験をおもちの先生が書かれたものです。まずは読んでみてください。なお、文章はこのブログ記事の体裁に合わせ、若干調整しました。

 人間の場合、「早く花を咲かせたほうが有利だ」とみる人が少なくない。なるべく早く完成しつつある姿を見たほうが安心できるから、なるべく目立つに越したことはないと考えがちである。
 しかし、小学生のうちには、まだ将来を予測するのは難しい。ただ、学校や学習塾は点数をつけ、順位をつけるところである。「みんな同じように可能性を秘めている」、などという評価をする先生は怠慢だと叱られる。どうしても、目の前のちょっとしたことで、優秀さと平凡とを区別しなければならない。
 時期はまだ早春で、たいていの花は咲いていない。いち早く花を開くチューリップはいかにも優秀なように見える。これにいい点をつけるのは間違っていない。チューリップちゃんは神童のように錯覚される。そのとき、ダリアはまだ花どころの騒ぎではないけれども、もう咲いている花を見て不安になる。ダリアちゃん本人はノンビリしていても、親が焦る。「早く咲かなきゃダメじゃないの」と言って、せかしたりしかねない。
 放っておいても、ダリアは夏が来れば咲く。そうなっても、菊はまだ葉ばかりである。キクちゃんの周りは、これはもう花は咲かないものとあきらめてしまうかもしれない。「花が咲かないなら、堆肥にしてしまおう」という親が現れる。
 急いではいけないのである。花にはそれぞれ咲く季節があるように、人間も咲くときが違っている。厄介なのは花の季節は初めからわかっているのに、人間の開花はいつなのか、咲いてみなければわからない点である。
 それで昔の人は、“大器晩成”ということを考えた。チューリップでないからといって、絶望するのは早い。ダリアの季節になったのに咲かないといってあきらめるには及ばない。菊なら秋が来て初めて花をつける。いつかは咲くのだ。
 今の世の中は、大器晩成の考え方が薄い。教師も簡単に将来を見通したようなことを言う。
「キミのような人間が、○○になれるわけがない」
「キミの成績では○○への合格は無理だね」
 教師だけではない。親も同じような考えをもっている。うちの子どもは いつ大きな花を咲かせるかわからないのに、よその花を見て、遅れている、 つまり、頭が悪い、能力がないとあきらめたり嘆いたりする。
                     (    中 略     )
 教育は一生に関わる。目先や、三年先、五年先のことだけを考えてはいけない。

 私が勤務しているのは中学受験の専門塾です。難関中学の入試合格にあたっては、子どもに早熟性もある程度必要ですから、親が子どもに早咲きを願うケースも少なくないと思います。しかしながら、今やっている勉強に成果がないように見えるお子さんも、じっくりゆっくりと飛躍に向けた準備をしていることもあるのです。

 運悪く中学受験の時点ではよい結果が得られなくても、中学進学後に頭角を現し、大学受験では誰もが驚くほどの好結果を得る。そんな事例を私自身、たくさん見てきました。

 そこである年、通学生の保護者会の最後に、この文章を朗読して会場の保護者に聞いていただいたことがあります。読んでいる最中はまったく気づかなかったのですが、読み終えてふと保護者のほうを見たら、ほとんどのかたが襟を正すかのような姿勢でじっと目を閉じておられました。おそらく、わが子の成長の様子を見守りながら、親として随分心配したり焦ったりされたことが、どなたにもあったのでしょう。だからこそ、この文章を書かれた先生の言葉が胸の奥深くに響いたのではないかと思います。

 これから先、お子さんの勉強が行き詰ったり、伸び悩んだりするようなときもきっとあることでしょう。そんなときには、「今は成果が見えてこなくても、努力を続ければ必ず報われるときがくるさ」――そう信じてお子さんを励ましてやりましょう。

 親のこのようなバックアップは、お子さんの心の重荷を取り払うばかりでなく、「あきらめずにがんばるぞ!」という活力を吹き込むことでしょう。お子さんは、基本的に親の望むような人間になりたいのですから。親が焦り、更なる重圧を課してしまうと、親の願いとは裏腹に子どもの気持ちはしぼんでしまいます。

 焦っては、いけません。特に子どもの将来に関わることならなおさらです。どんなときも子どもを辛抱強く見守り、大きく花を開かせるよう応援してやりましょう。それができるのは世界中でただひとり。おかあさんしかいないのですから。

H,S

 

2016.9.30 日常の言葉遣いと学力の関係

 学力をつけるためには何が必要でしょうか。才能? それとも勉強? 他にもありますか? 私が用意した答えは「勉強」です。理由は、いくら才能に恵まれても、勉強しないことには学力は身につかないからです。

 ただし、勉強をすれば必ず学力が伸びるわけではありません。勉強のクオリティが低ければ、いくら勉強しても成果にはつながりません。具体的にあげてみましょう。「どのように取り組むか」、つまり学習の方法が望ましいものかどうかは、学力の伸長に多大な影響を及ぼします。また、勉強が習慣として定着し、継続的に行われるかどうかも、積み重ね効果を引き出すための重要なポイントです。勉強しているとき、どのぐらいそのことに注意を向けているか、つまり「集中力」も成果に大きく関わる要素です。

 さらには、勉強の媒介となる「言葉」の習熟度も大変重要なファクターと言えるでしょう。たとえば、コミュニケーション能力。いうまでもなく、人と人とのコミュニケーションにおいて言葉は大変重要な役割を果たします。お子さんが学校で授業を受けるときも、塾で勉強するときも、言葉による情報を受け取ったり発信したりする姿勢や能力がしっかりしていないとうまく行きません。

 今回は、この言葉にスポットを当て、日常の言葉の使用状況が学力形成にどのように関わっているかを一緒に考えていただこうと思います。

 まずは、コミュニケーションで最も基本となる、「話す力」と「聞く力」をとりあげてみましょう。これらが確かでないと勉強は無論のこと、社会生活を営むうえでも苦労を 強いられます。ところが、近年は子どもたちの「話す力」も「聞く力」 も下がっていると言われています。原因はいろいろでしょうが、ゲーム やスマホ、テレビなどの影響は少なくありません。一人で長時間遊べる 道具が生活に入り込み、コミュニケーションの能力を養う時間を奪って いるのです。

 あるとき、レストランで食事をしていると、隣のブースに三組の若い男女のペアが座りました。さぞ和やかでにぎやかな歓談が始まるだろうと思いきや、全く会話が交わされる様子がありません。何気なく目をやると、男女6人全員スマホをいじりながら画面に目が釘づけでした。また、山奥の県道をロードバイクで走っていると、田んぼのあぜ道で小学生が何人か並んで座っている様子を目にしました。子どもたちは一緒に遊んでいるのではなく、それぞれのゲームに夢中になっているようでした。「何のために子どもが集まって戸外にいるのか…」と、驚きました。私の子どものころ、いや若いころには考えもしなかったことです。

 話す力や聞く力なくしてコミュニケーションはできません。勉強にも支障を来してしまいます。せっかく志望する大学に進学したというのに、入学後2〜3カ月も経たないうちに挫折する学生が増えているそうですが、原因は勉強に行き詰るのではなく、新たに参入した大学という世界で、コミュニケーションがうまくとれないからだと言われています。コミュニケーション能力は、集団に溶け込んで生きていくうえで欠かせない力なんですね。

 話すこと、聞くことはコミュニケーションの基本です。学校でも塾でも、先生や他の子どもの話を聞いたり、自分の考えを発表したりしながら学びます。

 こうした学習の場での言葉の使用状況は、学力形成に大きな影響を及ぼします。ちょっと例をご紹介しましょう。これは、ある教育学者が若い頃に小学校の先生をしておられたときのエピソードです。



 こうした指導の結果、子どもの話しぶりにかなりの改善がみられたそうです。それにつれて、学力のほうも追いついてきたと報告されていました。このエピソードから、どんなことが学べるでしょうか。

 少なくとも、次のようなことが考えられるでしょう。学校の授業などでは、互いに目の前に相手がいる家族間の会話と違い、先生はクラスの全員に話しかけます。勉強に関わる事柄をクラスの全員に伝え、考えることを求めます。聞く側は、不特定多数の子どもたちに話しかけられている言葉を、自分に対する言葉として受け止め、理解する必要があります。大人ならわかり切ったことですが、集団に向けて語られた言葉を、自分にも向けられた言葉だと認識して聞くことは意外と難しいことです。

 また、家族同士の会話で使われるくだけた言い回しの言葉と違って、学校などの正式な学びの場では、改まった言い回しの言葉や、順序性や整合性の伴った言葉の使用が求められます。日頃、家庭でこういう言葉遣いを経験していない子どもは、このような言葉を理解するのに難渋しますし、まして自分が使いこなすことはもっと困難なことです。そのことは学力形成において大きなハンディになってしまいます。

 いっぽう、小学校入学までに経験してきた家庭での会話が、学校での改まった 言葉遣い、込み入った内容を伝えるうえで便利な言い回しに近いものであれば、 子どもは面食らうことなく学校での学習になじむことができるでしょう。

 長くなったので、今回はここでひとまず終わらせていただきます。家庭での言葉の使用状況が、子どもの学力、ひいては将来の人生の歩みを決定づけるという説を唱え、世界中の教育関係者に大きな影響を与えたイギリスの学者を話題にとりあげ、「家庭の言葉と子どもの知力」との関係について、もう少し詳しく具体的に考察してみようと思います。

H,S

 




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