子のイラストバックナンバー

2019.5.3

確かな日本語力が
学力の向上を支える


 だいぶ前のことですが、著名な国語学者(故人)が子どもの学力低下についてテレビ番組で自身の見解を述べておられました。その内容ですが、だいたい次のようなことだったかと思います。

 「子どもの算数学力の低下が取りざたされているが、原因を多くの人がはき違えている。算数学習のありかたを云々する以前に、日本語力の低下を問題視すべきだ。たとえば、文章題を読んでも、その意味するところ、すなわち出題のシチュエーションを理解できないから式が見出せない。学力不足のおおもとは国語力低下にある。僅か数行の文章題の意味するところを理解できないほど、日本の子どもたちの国語力は危機的な状況にある…」

 みなさんはどう思われるでしょうか。私には思い当たるふしがありました。私が学習塾に勤務していたとき、保護者のかたからこんな電話を受けたことがあったのです。

「去年、おたくの塾に子どもを通わせようと思って入会試験を受けたのですが、何度受けても受かりませんでした。それで、1年間家庭教師をつけて勉強をさせたんです。それなのに、先日受けた入会試験でまた不合格でした。いったい、どこに問題があるのでしょうか?」

 そこで、そのお子さんの答案用紙を探してみました。すると、合格レベルに達しているお子さんと大きく異なる傾向が見つかりました。たとえば算数。計算問題は、基本的なものからかなり複雑なものまで、あらかたできています。そのいっぽう、自分で考えて立式なければならない問題や、問題の意味を理解するのに手間取りそうな、少し複雑な問題になるとほとんどできていません。たとえば、次のようなごく簡単な文章題があります。

 バケツにさとうが500グラム入っています。バケツの重さを加えると、700グラムになります。さとうを200グラム使ったら、残りのさとうとバケツの重さは合わせて何グラムですか。

 そのお子さんの解答欄には、10,000グラムと書かれていました。これにはびっくりしました。砂糖がどれぐらいの重さかを体験的に知っていれば、計算ミスをしたとしてもあり得ない答えです。使った後の砂糖がとてつもない量であることに、どうして気づかなかったのでしょうか。このお子さんは、問題文に出てくる数字それぞれの意味を、実場面に照らしながら考えていなかったのでしょう。「入れ物と合わせて700グラム。そのうち200グラム使ったら…」といった数のやりとりを流れに応じて想像していれば、こんなことにはなりません。

 さらに国語の答案を見て驚きました。漢字単体の問題に対してはほとんど正解を得ているいっぽうで、国語らしい問題、たとえば文章の内容把握や、場面における人物の心理を問うような問題ができていません。特に、選択肢でなく語句や文で答える場合の出来映えは悲惨な状態でした。おそらく、このお子さんのおかあさんは、計算や漢字などの機械的習練を「勉強」とはき違え、そういうものばかりやらせていたのでしょう。またせっかくつけた家庭教師も、こういう単純な学習のフォローは楽なので、手抜きをしていたのかもしれません。

 無論、それらも勉強の一要素です。しかし、もっと大事なのは、文字という記号を思考やコミュニケーションの手段として自らに取り込むこと、数字という記号に託す意味を場面に合わせて理解できることです。言い換えると、実場面を記号によって抽象する力、抽象化された情報から具体物を抽出する力を磨き上げるプロセスこそが重要な学習なのです。この点において、先ほどの国語学者の指摘は的を射たものだったと言えるでしょう。活字から得られる情報だけを頼りに問題設定場面をイメージする。それができれば、前述のような簡単な文章題は苦もなく解けたはずです。

 国語辞典の編纂などで知られる有名な国語学者は、小学校の国語教育の目標について、
第一に、しつけの手段としての言葉の教育
第二に、学習の手段としての言葉の教育
第三に、文学教育

と述べておられます。そうすると、実に小学校の国語教育における目標の大半は言葉の教育だということになります。というのも、三つめの文学教育は小学生段階では無理であるという学者の説もあり、いまだ論議の余地が残されているからです。

 第一の目標について、少し考えてみましょう。小学生時代のしつけは、幼児期までと違い、行動や考え方、常識などを教えるにあたっても、言葉を駆使して行われます。しつけをきちんとし、子どもに浸透させるには、子ども自身が言葉という共通のコミュニケーション手段を身につける必要があります。

 第二の目標も、言葉の教育に関わっています。考えてみれば、学校や家庭での勉強は、算数・国語に限らず、ほとんどが印刷された文字によって行われます。文字という記号に習熟し、文字の組み合わせによって生じる様々な意味を理解できる態勢を整えていかなければ、勉強は成立しません。それを支えるのは国語の学習です。

 こうしてみると、小学生にとっての国語は単なる1教科という枠を超え、知的能力を開花させるための土台をつくるという重要な役割を担っていることがわかります。ところが、近年子どもの国語学力が落ちていると言われています。何が原因なのでしょうか。

 ある学者によると、大正時代の小学校においては、国語の授業時間は週あたり13~14時間あったそうです。それが、教科の多様化とともに、現在では当時の約3分の1程度に減少しています。この学習時間の大幅な減少と、昨今の国語力低下の問題は無縁ではないように思えます。今ですら、小学校では学ぶべきことが増えているのに、もうすぐ英語も加えられることが決まっています(3年生以上)。

 もはや子どもの国語力を守り、将来に向けた学力開花への布石を打てるのは、家庭の他にありません。毎日の言葉の生活が活性化し、言葉に堪能な子どもに成長できるよう、家庭内の言葉のやりとり、音読、読み聞かせ、読書のありかたなど、様々な角度から検討し、わが子をバックアップしてやる必要があるのではないでしょうか。こうしたことについて、家庭単位で何ができるか、何をすべきかについて、私のほうから保護者の方々へいずれご提案をしてみたいと考えています。

H.S

2019.5.10

今こそ読みの能力の基盤形成を!
~その1~


 日本で生まれ育った子どもは、日本語環境の下で学び、日本語を通して様々な知的能力を身につけていきます。日本語の能力を養うことは、国語力のみならずあらゆる学問の習得を支えてくれます。しかしながら、ずいぶんと前から「日本の子どもの国語力が落ちているのではないか」という指摘が教育界のみならず、様々な方面からなされています。

 子どもの国語力の確かな基盤を形成することは、学び手である子どもの知力全般の向上にとって欠かせません。特に、正式な日本語の学習が始まる小学校入学からの数年間は、子どもが確かな日本語の遣い手となるうえで鍵を握る重要な時期にあたります。そこで今回から約3回に分けて、「わが子の日本語力(国語力)をいかに確かなものにするか」をテーマに掲げて書いてみようと思います。

 2003年のPISAショック(OECDの実施した「第2回国際学習到達度調査」で初回の8位から14位に順位が下がり、日本の教育界に激震が走ったできごと)以来、日本の子どもの読解力の低下がことさら問題視されるようになりました。以後の調査においても、若干改善したものの、直近の2015年実施分では、その前の4位から8位に下がっています。

 確かに、20~30年前の子どもたちと比べると、相対的に国語力、読解力は低下しているように私も思います。子どもの読む本のレベルや読書量が明らかに違うのです。ハリー・ポッターなどがない頃には、大人向けの重いテーマを扱った文学作品を読む子どもも少なくありませんでした。私が中学受験塾の現場にいたころには、休憩時間に大人向けの分厚い推理小説を読んでいる小学5年生の男の子を目撃したことがあります(その子は東大へ行きました)。当時、私は6年生の子どもにも夏休みまでは読書を奨励したくさんの本を紹介していましたが、子どもたちがそれを楽しみにしていてくれたことを思い出します。

 国語は初等教育における中心的存在です。すべての教科の学習は、文字という記号を意味に変換して理解することで成立するのですから当然のことです。その意味において、特に読解力を高めることは学力形成において必須のことだと言えるでしょう。今のうちに読みの能力を磨いておきたいものですね。

 おたくではどうでしょうか。毎日読み聞かせをしてやったり、音読を繰り返させたり、一緒に本を読んだりしながら、読書の習慣が根づくようお子さんをサポートしてこられたでしょうか。こうした流れをうまく築けば、お子さんが必然的に読むという行為を生活に浸透させていきます。当然のことながら、読書という活動は読みの習熟を保障してくれますから読解力不足などの問題は生じません。

 しかしながら、近年は本を読む子と読まない子との差が広がりつつあります。読む子どもは月あたり10数冊以上読むいっぽう、読まない子どもは月に1~2冊未満といった状況です。本を読まない子で国語の得意な子はまずいた試しがありませんから、やはり本好きの子どもにすることはとても大切なことだと思います。

 ところが現実はどうでしょう。小学校の中学年あたりまでは、わが子の国語力や読解力の現実に気づかない保護者が相当数おられます。そして、高学年になってから、「うちの子は話をするのは大好きでよくしゃべるんですが、文章読解が苦手で国語の成績がよくありません。どうしてでしょうか」というような相談を学校や塾の先生にすることになりがちです。その原因について調べてみると、ほとんどが小学校低~中学年のころの読みの態勢づくりが不十分だったことに起因しています。

 子どもにとって、文章を読んで理解するのと、目の前にいる相手と話すのとでは、わかりやすさにおいて雲泥の差があります。会話(話し言葉によるコミュニケーション)には、目つきや表情、身振り手振りなど、いわゆる状況文脈という手助けがあります。一方、文章を読む(活字によるコミュニケーション)場合は、紙の上の活字だけを頼りに理解しなければなりません。それは、文字を習って間もない小学生には大変困難の伴うことです。しゃべるのは得意でも、国語の成績がぱっとしないお子さんの多くは、話し言葉から書き言葉への移行がうまくいっていないのでしょう。

 子どもは、小学校への入学を起点に、正式に書き言葉を習い始めます。書き言葉は文法に基づいて論理的に流れを組み立てていく言葉です。いっぽう、思った瞬間に口をついて出る話し言葉は、多分に感覚的な要素をもっています。ご存知のように、話し言葉は右側の脳が司り、書き言葉は左側の脳が司っています。小学校の6年間は、右脳の支配するインフォーマルな言葉の体系を、ロジックに基づいて理路整然とした意思表示や情報伝達を可能にするフォーマルな言語体系に組み替える期間だと言えるでしょう。

 書き言葉を習い始めて2年もすると(小学2年生の前半ごろ)、子どもは文章を声に出して読まなくても、黙読によって理解できるようになってきます。この黙読への移行期と、子どもが言葉を頭の中で組み立てながら思考を巡らせるようになるのと期を一にしています。

 この段階に至って、やっと子どもは“読書らしい読書”ができるようになったと言えます。活字を目で追いながらその意味を理解し、そして自分なりの認識・見解と突き合わせながら読み進めていけるようになるからです。この段階へスムーズに移行できたお子さんは、前述のフォーマルな言語体系への最も重要な関門をクリアしたのだと言えるでしょう。

 しかしながら、こうした読みの態勢づくりが遅れたお子さんは、いつまでたっても話し言葉中心の生活をしています。読書を楽しめるようになったお子さんが、2~3年間のうちに(4~5年生頃)語彙を爆発的に増やし、読みのレベルや読書領域をどんどん発展させているというのに、いつまでもたどたどしい読みしかできません。

 このように、傍目にも読書力の個人差が顕在化して、やっと遅まきながらわが子の現実に気づくおかあさんが少なくないようです。(以下、次回へ)

H.S

2019.5.17

今こそ読みの能力の基盤形成を!
~その2~


 前回にお伝えした例にも増して、保護者の方から多数寄せられる相談があります。それは、「うちの子は読書好きで毎日本を読んでいるのに、国語の成績が芳しくありません。どうしてでしょうか」というものです。

 読書は、読解力をつけるうえで最も大切で基本的かつ効果的な方法だと言われています。どの学校でも読書が奨励され、「朝の読書時間」を設けている学校も多数あります。それなのに、どうしてこのような問題が生じるのでしょうか。

 理由は、おそらく読書の中身にあるのではないかと思います。どういうことかというと、筋立ての楽しさや、ワクワクするような結末への収束にばかり関心をもち、立ち止まって考えたり、文章の細部にまで注意を向けたりするような読みができないのです。つまり、そういうお子さんは見かけ上読書をしているだけで、ほんとうの読書をしているわけではありません。

 2~3年生ともなると、読み始めたと思ったらいくらも時間が経たないうちに「あーおもしろかった」と、本を閉じてしまうようなことはありませんか?もしそういうことがあるなら、今述べたような読書に陥っている可能性が高いと言えます。

 たとえば、大人が面白い推理小説を読んでいる場合を想像してみてください。「早く次の展開を知りたい。犯人は誰か突きとめたい」という気持ちに駆られ、途中の様々な細かな表現や描写にほとんど注意が向かなくなることはありませんか?大人なら既に必要な常識を身につけていますし、エンターテインメントと割り切った読書もOKでしょう。しかし、読書のプロセス自体が内面の成長に深く関わる子どもの読書は、それだけではいけないように思います。せっかくの読書時間を、活字の織りなす豊かな表現世界とふれ合う充実した時間にしなければ、もったいないのではないでしょうか。

 筆者の経験上、このタイプのお子さんは高学年になっても、大人の入り口に立つ世代の微妙な心理を扱った物語や、人間の生き方に関わる重いテーマを扱うような作品には興味を示しません。また、前述のように、筋立ての面白さやそれから得られる刺激が目当ての読書ですから、知的充足感の得られる読書への発展も期待できません。

 したがって、いくら読書をしても(読書をしたつもりでも)、読書の恩恵に浴することはできないのです。また、読者が活字を意味理解に繋げていく鍛錬の場にならないため、読みの上達は読書を楽しめるようになったお子さんと比べてどうしても遅れがちです。挿し絵の美しさ・楽しさや、筋立ての面白さから読書の世界に入るのは、何らさしつかえのないことです。しかし、そこから次第に子ども自身が読んで手応えのある本や、感動を呼び起こしてくれる本へと発展してこそ、読書は意味をもたらし生活の一部になっていくのではないでしょうか。

 子ども向けの本なら何でも構いません。しかし、できるなら親自身が子ども時代に読んで感動した本や、予め親が先に読んでみて、子どもに読ませてやりたいと心から思える本を子どもにあてがってあげてほしいですね。というのも、本に描かれている世界を通して、子どもは自己のなかに自分ならではの世界を少しずつ築いていくからです。わが子がよい本と出合えるかどうかは、親のそうした心遣いが随分と差用するのだということを踏まえ、ぜひそうした試みを実行に移してあげてほしいですね。以下は、大学の先生から寄稿いただいた文章の一節です。本物の文学にふれる体験の必要性を説いておられます。ちょっと話が横道に逸れるかもしれませんが、読んでみてください。

 某公共放送のTV番組を見ていて、小学校4・5年生の子ども達が、<人によっては死後生き返る>とまじめに考えていることを知り、慄然とした。親子2世代だけの核家族がふつうになり、多くの子どもが肉親の死を目の当たりにしなくなったからだと言われるが、原因はそれだけではあるまい。子ども達が読んでいるもの、見ているテレビ番組や映画のなかでは、人間の死を、尊厳を持って扱っているものがほとんどないのではないか?
 私は関西のある女子大で児童文学、文化を専攻している学生たちにロシアの児童文学についての講義をしているが、世界の児童文学を学生達ですら、ハッピーエンドで終わらない作品に違和感を持つと言う。人がゲームのようにパサリ、シュシュシュッと殺されたあとで、ヒューシュンシュンシュン生き返るような作品ばかりが氾濫する今の日本である。子ども達が「望まないのに殺されたような人は生き返ると思います」などと言うのを聞いて、頭を抱えてしまう私達大人の方がおかしいのかもしれない。子ども達を悩ます問題が山積しているのに、それらについて真剣に考え込ませるシリアスな作品はほとんどなく、安易な<魔法>ものやうつろな<ファンタジー>ばかりが溢れている。

 いかがでしょう。「そんな堅いことは抜きに、どんな本でも楽しく読んでくれればいい」と思われるかたもおられるでしょう。ですが、読書がある程度レベルアップしてきたなら、上記の引用文のような事柄も踏まえ、人間について深い理解や洞察が得られるような本も読ませてあげていただきたいなと思います。そのことは、お子さんの国語力や読解力の向上に少なからぬ貢献をしてくれると思います。

 再び本題に戻ります。場面の一つひとつを楽しみながら、そこにでてくる言葉の意味をわかろうとする読みかたをする子どもは、たくさんの未知の言葉と出合います。そうして、言葉のバリエーションをどんどん増やしていきます。それがまた読み味わう力を育て、さらに高い次元の読書へと子どもを誘(いざな)っていきます。

 近年は、「速読」技術がもてはやされ、短時間にたくさん本を読むことがあたかも知的人間の生きかたのように言われることがありますが、これを子どもに適用しても意味がありません。むしろ、子どもには「遅読」や「繰り返し読み」が必要なのであり、たくさんの本を表面的に読む体験は、子どもに何ら創造的意味をもたらしません。(以下、次回)

H.S

2019.5.24

今こそ読みの能力の基盤形成を!
~その3~


 その1、その2まで読んで、「うちの子の読みの能力や国語力はだいじょうぶだろうか」と不安になったかたはありませんか?

 ご安心ください。もし読みの能力の基盤形成が多少遅れていたとしても、小学校の3年生ぐらいまでなら十分対処が可能です。そういうかたは、年齢相応の本を適当に選び、お子さんに「音読」させてみてください。無論、玉井式のテキストの文章でも構いません。お子さんが、文章を数行以上一定のスピードで正確に滑らかに音読できるようなら、読みの態勢は順調に整いつつあると言ってよいでしょう。

 では、なぜ音読なのでしょう。黙読ではお子さんが本当に読めているかどうか判断できないからです。音声は活字の連なりを声に出して読む行為ですから、間違いやつまずきは親にもわかります。お子さんがちゃんと音読できているなら大いに誉め、読書を奨励してあげてください。おかあさんもお子さんの後で同じ本を読み、楽しかったところ、心の惹かれた部分を披露し合い、読後感を共有するのもお子さんの読書を活性化させる有効な後押しになるでしょう。

 問題は、わが子に音読をさせてみて、その不正確さや拙さに親も驚くような事態が生じたときです。これは私が中学受験塾で国語の指導現場にいたときの体験ですが、中学受験をめざす6年生でも、わずか1行すらつまずかずに読み通すことのできないお子さんがいます。

 こういうお子さんが、速読速解の要求される入試において、大変なハンディを背負っているのは想像に難くありません。なにしろ同じ文章を数分以内で読み切る子どもがいるというのに、何倍もかかるうえ、読みの精度が大きく劣っていては勝負になりません。こういう事態に陥る前に、なぜ親や周囲の大人が状況を察知し、手だてを講じなかったのであろうと悔やまれてなりません。というのも、6年生になってからのわずかな期間で読みの態勢の立て直しを図るようでは、中学受験には到底間に合わないからです。そうならないためにも、低学年のうちに読みの技術を軌道に乗せる必要があります。

 では、もしわが子が音読もままならぬ状態にあることがわかったら、どうすべきでしょうか。その場合は、お子さんが何年生であれ、易しい文章の音読から再出発すべきです。親が傍にいて、一緒に読んだり段落やページごとに交互で読んだりするなど、なるべく楽しい音読になるよう工夫しながら、お子さんが上手に読めるようになるまで後押しするのです。すぐに効果はあがらなくとも、焦らず辛抱強く、読みのレベルアップに向けて鍛錬を繰り返すしかありません。そうした親の努力は、精神的には辛いものですが、やがては必ず報われるものです。

 音読もそうですが、算数の筆算など、学習において必須とされる技能の習熟にあたっては、成果が表れて定着するには100日ぐらいかかると言われています。それは、特定の技能をマスターするにあたり、脳のなかでの神経連絡網が整うために必要な期間がそれぐらいだからであろうと思います。ですから、簡単に飽きたりあきらめたりするのではなく、保護者が熱心に奨励したり、サポートをしたりすることが、低学年児童期までは必要だと思います。

 「うちの子は、もう一人で本を読んでいる」と安心するおかあさんがおられますが、前述のように一人で読書をしているように見えるだけなのかもしれません。問題は読書の中身なのです。

 もし、もう少しおかあさんに時間がとれる家庭なら、音読とともに「読み聞かせ」もお勧めします。「今さら、読み聞かせなんて幼稚なこと…」と思われるかも知れません。しかし、読み聞かせは、子どもが読書に興味をもち、自ら行動に移すための導入として、これ以上ないものです。特に、おかあさんの上手で愛情溢れる読み聞かせは、本のもたらす楽しい世界への誘いとして格別なものです。

 欧米の読書研究家の本を読んでみると、読み聞かせが、わが国のそれよりも遙かに重要視されていることに驚かされます。ニュージーランドの読書運動家ドロシー・バトラーさんの本によると、「おばあさんが暖炉の傍で孫に読み聞かせをしてやり、それを兄や姉が傍に座って一緒に楽しみ、さらには台所で洗い物をしているおかあさんが一緒に聞く」――これが欧米の伝統的な読み聞かせのスタイルであり、こうした時間を家族で共有することが子どもの読書意欲を育てるだけでなく、家族の絆を深める貴重な時間になっているのです。

 つまり、読み聞かせは、「読書ができるようになったら卒業」という単純なものではなく、人間の重要な営みとして年齢に関わらず何らかの形で必要なものなのですね。

 読み聞かせから得られるものと、テレビやゲームから得られるものと、どちらが低学年の子どもによいでしょうか。もはやそれは言うべくもないことですが、それなのに、現実はテレビやゲームに席巻されている家族団欒の時間。そうしたことも含め、子どもにとっての環境や親の働きかけのありかたを、もう一度問い直してみる必要もありそうです。

H.S

2019.5.31

子どもの可能性を広げる
最適の方法は?


 みなさんは、わが子の将来に向けて具体的なビジョンをおもちですか?そう問いかけられてすぐに答えられる人は稀でしょう。ほとんどの親は、わが子が何に向いているかを知る手立てなどほとんどもち合わせていませんから。

 そのいっぽうで、「うちの子は、どんな方面に才能があるのだろうか」ということや、「将来どんな職業に就くことになるのだろうか」ということに興味をもっておられるかたは少なくないと思います。そればかりか、「わが子に何らかの適性があるなら、親として何らかの援助をしてやりたい」と思っておられるかたもおられることでしょう。

 しかしながら、現実には子どもが何らかの遊びに夢中になっていたり、特定の事物に興味を示したりしても、それは子ども時代によくあることであり、将来の人生の方向性と重ねてとらえる親はごく稀であろうと思います。

 ですが、子どもの可能性を広げるための手助けをしてやることには大いに意味があります。わが子が将来何になるかはわからなくても、将来の人生選択にプラスの影響を与えてやれることはできるのです。いろいろな書物をあたってみると、幼少期に親がいろいろとサポートをしていたことが実を結び、将来ある方面で一門の人物に成長していくという話は結構多いようです。

 その最たる例を一つご紹介してみましょう。ある本を読んでいたら、ノーベル物理学賞を朝永信一郎博士とともに受賞された、リチャード・ファインマン博士の子ども時代の話が書かれていました。博士のおとうさんの愛情深い熱心な関わりが、ノーベル賞を受賞するほどの偉大な科学者を育てたのです。博士のおとうさんが息子のファインマン少年にしてやったこととは……。

 ノーベル物理学賞受賞者で、20世紀最高の科学者として知られるリチャード・ファインマン教授の父親は科学者ではなく、あまりうだつのあがらない起業家だった。しかし、少年時代を振り返って、ファインマン教授は、彼が科学者になったきっかけは、「父親が博物館に連れて行ってくれたこと」だったと述べている。
 ファインマン教授の父親は、博物館で氷河期の模型を見つけると、ファインマン少年に熱心に氷河について説明し始めた。父親の説明は完ぺきとは言いがたく、間違っていたことも多々あったという。しかし、父親の熱心な姿勢と、ことあるごとにファインマン少年の意見を訪ねる姿勢は、単に正しい説明を与えるよりもはるかに大きな財産を、ファインマン少年に残したのだ。

 ものを知ることの楽しさを熱心に教え、子どもの感想や反応を引き出す。それを繰り返すことが、偉大な科学者を育てる原動力となったのです。このエピソードは、アンドリュー・J・サター氏の著書で紹介されていたのですが、サター氏は自身の子ども時代のことも書いておられました。氏の家庭は、年に数回マンハッタンの現代美術館(MoMA)に家族で出かけるのが習慣だったそうです。また、両親はいつも家でレコードをかけて聴いていたとか。特に多くかかっていたのは、フランクシナトラとジャズだったと回想されています。

 面白いのは、こうしたサター氏の両親の働きかけに対して、子どもたちの反応が様々な形で将来の進路に影響を及ぼしていることです。サター氏の次兄は優秀なエンジニアになりましたが、若い頃にはMoMAで開催されていたクラスに足繁く通い、それから写真や絵画に没頭しました。氏の妹は両親から音楽面で影響を受け、独学でピアノとオルガンの演奏を学び、さらにはセミプロのソプラノ歌手として活動するようになりました。サター氏自身は若い頃には科学に興味をもち、毎週末に大学で行われる科学系のクラスにつれて行ってもらったそうです、ハーバード大学を出たあとは、クラシック音楽の書評を書いたり、外国書籍専門の書店で働いたりした後、今度は法律に興味を抱いてロースクールに入り、やがて国際弁護士として活躍するに至りました。

 このようなエピソードに触れるにつけ、親とは本当にありがたいものだと思わずにはいられません。ファインマン博士の父親もサター氏の両親も、特別な目当て、実利的な成果を期待して子どもに働きかけたのではありません。子どもに知的なもの文化的なものに数多く触れさせる経験を、ただただ惜しみなく与えたのです。それが、子どものもつ個性や才能と結びついて予期せぬ化学反応を引き出し、人生の歩みに少なからぬ影響を及ぼしたのです。

 これは私自身の家庭のことで恐縮ですが、成人になったわが子を見ていると、かつて親として働きかけたことが子どもの人間形成によきに悪しきに影響を及ぼしていることを感じます。また、両親ともに文系タイプなのに、息子が理系の職業に就いたのも、幼少期からさせた体験が色濃く影響しています。幼児期には親子で数数え遊びを楽しみ、児童期前半には親が買い与えたパソコンの算数ゲームに熱中していました。このこと一つとっても、幼少期からの親の働きかけは、子どもの人生の歩みに対して有形無形の影響を及ぼすのは間違いないように思います。

 親の働きかけに対して子どもが素直に反応する。それは小学生時代までのことです。今、すでに様々な働きかけをわが子にしておられるご家庭もありましょうが、もしも今回の記事をきっかけに「わが子に対して何かしてやりたい」と思われたなら、躊躇うことはありません。お子さんの目に触れさせたり、体験させたりしてみてください。たとえ手応えの得られるような結果を引き出せなかったとしても、親子共通の体験としていつまでも心に残されるに相違ありません。

H.S

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